ちょっと前にここで書いた話の続き。
下巻も読んだからざっくりとメインの感想を書いとく。
旧約聖書に描かれてる神様はヒドイ。ええんか?!って言うくらいヒドイ。
今までなんとなく聖書で言うところの神様というのは万能で慈悲深い存在なんだと思ってたけど、完全に間違っていた。少なくとも旧約聖書物語を読んだ限りでは*1。
上の記事でも書いたけど、旧約聖書物語は旧約聖書からウォルター・デ・ラ・メアさんが重要と考える出来事を抜粋して物語として構成し直してるものだから、あたしが読んだものが全てではない。あと、脚色とかはしてないとは思うけど、彼が選んだ出来事という時点でフィルターがかかっているのも確かだと思う。
それを踏まえても、やっぱりヒドイ気がする。
一番あたしが引いちゃった出エジプト記から例を少し挙げとく。
- エジプトで奴隷となって苦しんでいるイスラエル人たちに対して、神は脱出せよと命令するんだけど、ここで初めて神は遥か昔に彼らに与えると言っていた「約束の地」に導くと言う。えっ、神様、今頃?いつの約束よ?あんたの民はずーっとエジプトで奴隷して苦しんでたんですけど。
- モーセがイスラエル人たちを引き連れてエジプトを脱出しようとすると、エジプト王が許さないんだけど、神はモーセにエジプト王の気持ちを変える知恵ではなく、ナイル川を汚染したり、毒ブヨの大群を発生させたり、疫病を流行らせたりしてエジプトの民を苦しめる力を与える。結果、もともと自分のことしか考えてなくて王宮でこういう被害もある程度回避できてる王は全然折れず、本件に関係ないエジプトの民が延々と苦しむ。神様!おかしいでしょ、その対応!
- エジプトを脱出して神様に導かれて約束の地カナンに向かうも、なぜか遠回りしている*2。そして疲れ切って信仰心が薄れたイスラエル人に怒り、約束の地にたどり着くまで40年間エジプトとカナンの間をさまよわさせる。導くと言いつつ試練を与えて人をテストし、気に入る結果じゃないと怒るって神としてどうなの?
- カナンにたどり着くまで、イスラエル人に何度も途中のまちを焼いたり略奪させたりしている。カナンに着いても、その地域にすでにあったまちを崩壊させ、征服させている。え?現地民のみんなが可哀相じゃん!ヒドくない?
旧約聖書という範囲で見たらこの辺はほんの1面でしかないんだけど、
- 一神教であることの強調
- イスラエル人のことを選ばれた民とし、それ以外の民はみんな敵とする位置づけ
- 選ばれた民として相応の信仰心を示すことの強制
っていうのが旧約聖書物語の端々で出ていた。個人的には、DVオヤジとかを連想しちゃってげんなりする部分が結構あった。
下巻ではあんまり神は直接登場してなくて、ほとんどは祭司とか預言者とかが神の意向を探ってるだけなんだけど、そういう間接的な描かれ方の中でもやっぱり神は理不尽だったし、逆にそれを重んじてる民のことが心配になった。
こういうのを聖書にするとか、こういう神を信仰するのってどうなんすか?あたしにはどう見ても健全と思えないんだけど、大丈夫なんすかね?
ちなみに、この旧約聖書のみを聖典としてるのがユダヤ教。そして、旧約聖書の中のモーセ五書とかも聖典としつつ、ムスリムの人々にコーランで神への絶対服従を説いたのがイスラム教。旧約聖書を拡大して選ばれた民云々っていうのを取り払って新約聖書でアプデしたのがキリスト教。
あたしは今回、中学生以上向けというレベルの旧約聖書物語を読んだだけだし、ユダヤ教やイスラム教のことも詳しくないし、中東の情勢のことも殆どわかってない。
でも、いつまでたっても終わらない中東の紛争について中東の人が自嘲気味に「これは神の戦いだから終わらない」ってコメントする理由がなんとなくわかった気がする。
ヒドイ話だよ、神様。
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