言語は、それを使う人の思考や言動と密接に関わっている。
ほとんどの場合、人は言葉で表現できる範囲でしか思考できないし、思考が弱ければ(=意思が弱いとか、知識が乏しいとか、考えがネガティブとか)それを反映した弱い言葉を喋りがちになる。
そういう意味で、あたしは一般的に使われている日本語の変化に不安を感じることが多い。
最近一番気になるのは、「◯◯かなと思います」という言い方。
アメリカで25年暮らしてから日本に戻ってきたら、やたらとみんながこの言い方をするようになっていた。
昔はちゃんと自分の意見を「◯◯だと思います」と言っていたと思うし、自分の意見として断定できない場合では「◯◯ではないかと思います」と言っていたと思う。こんな弱々しい、「そう思うけど、ちょっと思っただけだし、違ってたら怒らないでねー」的な意図が見え見えの「◯◯かなと思います」という言い方は聞かなかった。
最初は、へぇー最近の若い子はこういう言い方するのねー、身を守る言い方なんだろうなぁ、こういうのが流行る社会って微妙だなぁと思う程度だったけど、専門家や政治家もこういう言い方をするのに気づいてからは、本当にげんなりしている。
最近なんかは、大企業の社長が自社のあり方を語るときに「◯◯が大切なのかなと思います」とかなんとか言っているのを見て、リーダーだろ、お前は!当社はこれを大切にしていますと言い切れ!とテレビに向かって突っ込んでしまった。
「◯◯かなと思います」という言い方を多用する人は、本人にはそんな意図はないかもしれないけど、自分の言葉や思考に責任を持たない癖を強化していると思う。
それでなくても日本っていう国は責任を曖昧にして忖度だけで微妙な方向に突っ走る傾向が強いのに、断固として何も断定しない文化をみんなで育ててたらまずいとしか思えない。
断定したくない傾向と言えば、「◯◯になります」という言い方もあたしは気になる。
「◯◯になります」っていう言い方は、あたしがアメリカに行く前からあった。でも、それは例えばレジで言う「お会計は◯◯円になります」みたいな使い方で、全部足したら金額はこうなったよ的な「◯◯になる」という本来の意味がちゃんと裏にあった。
今はそういう意味があるかないかにかかわらず、というか、むしろないところで、みんなが「◯◯になります」を使いまくっている。
担当者が施設を案内しながら「こちらが貯蔵庫になります」とか「こちらは作業場になります」みたいなことを言ったり、ウェイトレスが「こちらがコーヒーになります」と言ってコーヒーを持ってきたりする。
こういうのを聞くと、「こんなのが貯蔵庫なの?」とか「こんなコーヒーあるか!」みたいに突っ込まれる可能性を防ごうとする意図を感じて、なんで普通に「こちらが貯蔵庫です」「こちらは作業場です」「コーヒーをお持ちしました」と言えないのだ、お前たちは!と思ってしまう。
あんまり連発されるとこっちにもスイッチが入って、もう貯蔵庫になってるんでしょ、そっちはもう作業場になってるし!とか、これがこれからコーヒーになるんかい!と心の中で突っ込んでしまう。
まあ若い人なんかだと、何の意図もなくただ単に「こういうときはそう言うもの」という感覚で言っているだけなんだと思うけど。
いずれにせよ、「これは◯◯です」と断定しきれない・断定しない文化がどんどん広がって強固なものになってきているのをひしひしと感じる。
言葉は思考になり、思考は現実になる。