もうほぼ2ヶ月前の話なんだけど、渦巻きトンネル対策バッチリで行った島根・鳥取旅行では、
島根県松江市の松江歴史博物館にも寄った。
そこで知ったんだけど、松江藩には雷電為右衛門(らいでん ためえもん)などの有名なお抱え力士がいたんだそう。
……お抱え力士??
あたしは旅行に行ったら、なるべくその地域の歴史博物館とか史料館に行くようにしている。でも、今までどこかの藩でお抱え力士がいたなんて話、聞いたことないんですけど!
お抱え絵師とかはわかるよ。絵師を専属で雇って城とか寺の天井や襖に絵を書かせてたんでしょ?でもお抱え力士って何?力士ってお抱えにする必要、ある?
旅行中いろいろ考えてみたんだけど、相撲についても幕藩時代についても知識が乏しいあたしには、なぜお抱え力士なんてのが存在していたのかわからなかった。
……ので、今更ながら調べた。
そしたらめちゃくちゃ興味深かったのでメモっておく。
相撲というのは、日本では古代から行われていたものなんだけど、時代ごとにいろいろな文脈で行われてきている。
- 相撲節会:健児(兵士として仕える人)の選抜を目的として奈良~平安時代に宮中行事として行われていた
- 神事相撲:天下泰平、五穀豊穣など様々な願いをかけて相撲を奉納する神社の祭事として奈良時代から行われていた。現在でも行っている神社あり
- 武家相撲:鍛錬目的で鎌倉時代から武士の間で行われていた。源頼朝などの有力武士は相撲を流鏑馬などと同様に開催し、家臣に力を競わせていた
- 土地相撲:戦国大名が相撲を好んだ流れで民衆の間でも相撲が広まり、地元の力自慢が対戦した草相撲
- 勧進相撲:神社仏閣の建築・修復の資金調達目的で行われた興行としての相撲。戦国~江戸時代にかけて土地相撲が発展して相撲巡業で生計をたてる力士が出てきた流れで、勧進相撲と称しながらも普通の営利興行に
- 上覧相撲:将軍が観覧する相撲。庶民の間でますます相撲が流行るきっかけに
- 大相撲:勧進相撲が一本化され現在の形に
この流れの中で、戦国大名たちが相撲に強い者を武士として取り立てて「相撲衆」と呼ぶ動きがあったんだけど、戦国時代が終わってからは武士としての役目もなくなり、力士は藩主に仕える家臣と言うより藩主をスポンサーとする選手のような位置づけになったというわけ。
相撲愛好家だった前田利常などは力士を50人抱えていたとか。また、各藩では有望力士の引き抜き合戦が起こっていたそう。
雷電為右衛門が出てきたのは明治時代だけど、このときもまだ同じような状況で、力士がどこかの相撲部屋に入って稽古を積むやり方はすでにあったけれど、彼らの帰属は相撲部屋でなく藩だった。そのため、番付表に書かれるのは出身地でなく藩名、相撲場所の取組は違う藩の力士同士で、同部屋でも所属藩が違えば対戦したそう。
あと、勧進元は人気力士に出場してもらわないと儲からないから、各藩の家老との交渉が必須だったらしく、大名が番付表に口出ししたりすることもあったらしい。
いやー、相撲にこんなに長くて面白い歴史があったとは知らなかったわ笑
戦国時代が終わって平和になったら、相撲が本格的に娯楽化したんだねぇ。
各地の藩主たちがこぞって有望力士をリクルートしてたとか、他藩に対抗意識燃やして応援してたと思うとちょっと楽しいし、「◯◯藩強いねぇ!」みたいなブランディング効果もあったのかなとか、藩民も「うちの力士はー」みたいに藩民プライドがあったのかな、と想像するのも面白い。
相撲はマジで日本の国技だった笑
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