スリランカのバスや列車の話ばかりしたけど、
スリランカを旅して一番驚いたのは、仏教のあり方だった。
仏教についてはまだ勉強し始めたばかりで詳しくないけど、上座部仏教と大乗仏教の考え方の基本的な違い*1については一応知っていた。そういう意味で、上座部仏教のスリランカと大乗仏教の日本では信仰や実践に違いがあることもわかっていたつもりだった。
でも、実際に見たスリランカの仏教は、想像以上に日本のものとは違っていた。これ、同じ仏教の枠でいいの?ユダヤ教とキリスト教みたいに別物と考えるべきなんじゃない?と思ったくらいだった。
なので、特に驚いた側面を2つ記しておきたい。
1つ目は(お釈迦様という意味で言うところの)ブッダ*2の位置づけ。
今回スリランカではいくつかの寺院を回ったけど、ブッダの生涯やスリランカにおける仏教の歴史を描いてブッダの超人性や神格化を強調しているパターンが多かった。
日本では寺にデカデカとブッダの生涯の絵が描かれているケースはあんまりない。仏教を語る上でポイントなのは教えや慣習で、ブッダの生涯はメインポイントじゃないから、たいていは「インドのシャカ族の王子として生まれたが、出家し悟りを得た」程度しか語らない。
でもスリランカでは、ブッダはもともと天界にいたとか、白象となって人間界に降りてきてマーヤー夫人の母胎に入ったみたいな、神格アピールが強かった。
てか、ブッダってもともと天界にいたけど請われて降臨したっていう設定だったの?知らなかった。
天から遣わされて来たってキリストみたいな話じゃん。
2つ目はブッダと信者の関係性。
あたしがスリランカの寺院で見た人たちは、手を合わせて頭を下げるだけの人もいたけど、額を床につけてひれ伏す人も多くて、一神教の信者が神の前でひざまずいて祈るのと似た感じの祈り方をしていた。実際に何と言って(または思って)祈っているのかまではわからなかったから、一神教の祈り方と中身的にも同じなのかまではわからないけど、とりあえずそういう印象だった。
日本でも手を合わせて仏様を拝む。でも「拝む」と「祈る」は違うと思う。うまく言語化できないけど、拝む佇まいと祈る佇まいは全然違う。
たぶん、ブッダと信者の関係性が日本とは全然違うからだなんだろう。
実際、日本ではブッダのことをお釈迦様とか仏様と呼ぶと思うけど、スリランカではブッダは Lord Buddha と呼ばれていた。Lord Buddha!初めて聞いたときは「BuddhaにLordつけるの?」と本当にびっくりした。Lordっていうのは領主とか貴族って意味もあるけど、ユダヤ教やキリスト教では神を指す。「主よ」って言ってるのと同じ。
スリランカ人は自分たちをブッダの下僕と位置づけてるんじゃないか。お花をお供えするときも、香りはLord Buddhaに捧げるものだから自分が嗅ぐことは許されない。仏前のお供えも、山盛りになっちゃうと係の人たちがゴミ箱を持って回収に来て捨ててしまう。
日本では、仏様は尊いと認識してると思うけど、自分たちを仏の下僕とは位置づけていないと思う。お供えしたものだって、あとからありがたくおすそ分けして頂いたりしてるし。
なんにせよ、スリランカを旅したおかげで、仏教のあり方がこんな根本的なところから違う地域があると知ることができた。世界は知らないことでいっぱいだ。
ちなみに、キャンディの仏歯寺には世界仏教博物館が併設されていて、スリランカだけでなく、インド、バングラデシュ、ネパール、ブータン、パキスタン、ベトナム、中国、日本、韓国など様々な国の仏教の展示があって、とても興味深かった。
写真禁止だったから見せられるものが何もないんだけど、仏像1つとっても各国の特徴があって、同じ仏教でもやっぱり土地によって違うというのがわかりやすかった。オススメ。