役に立つかは別として

頭の中にあるゴチャゴチャを出しとけばスッキリするかも

複数バージョンの自分がいても仕方ないが、少ない方がいい

今朝、カジューさんのこの記事を読んだ。

kazindia.hatenablog.com

海外で日本人に会うとなんとなく気恥ずかしい、という話。

とても興味深かった。

そう言えば、あたしも昔むかしはそういうふうに感じていたことがあったかも…。

今は、海外で日本人に会ってもなんとも思わない。で、なんとも思わないから、日本人同士という理由だけでわざわざ話しかけたいとも思わない。でも、何か共通の問題に直面してるとか、相手が困ってるとか、話しかけたい理由があればたぶん普通に話しかけると思うから、決して日本人に話しかけるのが嫌というわけではない。なんなら日本国内でも話しかけたくなったら日本人・外国人問わず、わりと平気で知らない人に話しかけてるし。

で、何が変わったんだろう?と考えて、あたしが海外で日本人に会っても気恥ずかしくないのは、自分が日本でも海外でも同じように振る舞って暮らすようになったからじゃないかなと思った*1

つまり、逆に言うと、海外で他の日本人に会うのが気恥ずかしい日本人は、日本にいるときと海外にいるときの立ち居振る舞いが違うんじゃないか。本音と建前、とまではいかないかもしれないけど、それに似た違いがある気がする。日本国内では建前寄り、海外では本音寄り、みたいな。

あたしから見ると、日本にいる日本人は、普段はお互いの行動をモニターしつつ空気を読み合う作法に則って必要以上に礼儀正しく行動しているように見える。でも海外ではそういう必要がないから、日本人の言動ももっと開放的で自由になる。

だから、そうやってのびのび自分を開放してるところを同胞に見られるとなんとなく我に返っちゃって気恥ずかしいんじゃないかなぁ。あと、相手がそうやって日本人っぽくない所作をしてるところを目撃しちゃうのもなんとなく気まずく感じちゃうんじゃないか。

他の国の人に話しかけるのは苦にならないけど日本人だと尻込みしてしまうのも、日本人としてどうあるべきかを共有した者同士というハードルがあるからじゃないのかな。今の自分を日本の価値観で評価されたら嫌だな…みたいな。

だから、カジューさんが言う通り、これは日本人という属性による現象なんだと思う。自分は日本人で相手も日本人という認識と、海外にいて日本人らしく振る舞っていないかもしれない自分と相手、というギャップが気まずさにつながっている気がする。

たぶんあたしは、アメリカみたいな、実力主義で相手がどこ出身かなんていちいち考えていたらきりがない国にずっといたから、いい意味でこの辺の感覚が擦り切れちゃってるんだと思う。実際自分のことは日本人らしくなくても自分のポリシーに合ってればいいやと思ってるし、相手に関してはどこの国の人でも人間的にOKならそれでいいと思っている。

まあ、自分のポリシーに則って行動すると日本ではたまにひんしゅくを買ったり、嫌われたりするんだけど笑

人はみな、複数のバージョンの自分を日々使い分けていると思う。でも、たぶん、バージョン数が少ないほど、そしてバージョン間の差が小さいほど、人生は生きやすい気がする。別バージョンの自分を発見されて気まずくなる確率が減るから。

 

 

*1:日本にいても日本人らしく振る舞う努力を放棄しているだけという話もある。