昨日、この記事を読んだ。
散歩道に石を置いてみたら道が身近に感じられるようになり、気づきが生まれやすくなって面白くなった、という話。そして、このようなマーキングには巡回が必要になるが、逆に言うと日々の繰り返しはマーキングで面白くなるということではないか、という話。
で、すごく共感したから、少し掘り下げてメモっておきたい。
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散歩とか仕事みたいな特定なことの繰り返しにしても、日常という日々の繰り返しにしても、なんなら人生という日常の繰り返しにしても、とにかく何かの繰り返しを面白くするのは差分という視点だと思う。
差分があるのかないのかという視点だから、差分自体はあってもなくても構わない。ずっと変わらないのが良いケースもあるし、どんどん変わっていくのが大切というケースもある。変わるのか変わらないのかわからないのが面白いときもある。どれでもいいんだけど、差分があるべきときにはないとつまらないし、あって欲しくないときにあってもつまらなくなるし、あるかないかを楽しみにしているときは予想ができるようになってしまうとつまらなくなる。
そして、こういう差分視点の面白さは歳を重ねてくると比重が大きくなってくる。
なぜかと言うと、
- 何もかもが新鮮で何をやっても初めての体験という、若さゆえなんでも面白いという特典が減ってくる一方、
- 人生でマーキングしたものが累積してきて、何を見ても差分を見出だせる確率が高くなり
- 新しい体験の中でさえ、関連マーキングとの差分を見いだせるようになる
から。
ちょっと前にこういう記事を書いたけど、
これも要は、1回目に2本立てを観たときの感動というマーキング、あとからラジオを聞いて「あれ?」と感じたときのマーキング、そして詳しく知るための読書で得た学びというマーキングがあったから、2回目が面白かったのだと思う。
常に新しいことに挑戦して新しい体験をすることの価値についてはよく語られるけど、同じことを繰り返してみることの価値はあまり語られない。
もしかすると、そもそも日々の行動や出来事や学びをマーキングするという概念や意識があまりないから、同じことを繰り返す価値など考えつかないだけなのかもしれない。でも、マーキングするという概念や意識がなくても、何かに注目して自分なりに思考したり体験したのであればそれで立派なマーキングになるから、人は無意識のうちにあちこちに石を置いている気がする。
実際、あたしが1回目に「Elizabeth」2部作を観たときに置いた石は無意識だった。
だから、誰でもきっと探せば人生のあちこちでたくさん石を置いて来ているんだろう。そういう意味では、単に石の置き場所を思い出して巡回すればいいだけなのかもしれない。
でも、今後はもっと意識的に石を置いていこうと思う。巡回する前提で意図的にたくさん石をあちこちに置いていきたい。
本気でマーキングという遊びをしたら、きっと人生はもっと面白くなるはず。
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