さっき、ギリシャ旅行の日程を組むのに苦労した話を書いたけど、
この一連の出来事の中で思ったことがあったから、旅行に行ってどうでも良くなっちゃう前に書いておく。
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最近、宗教について勉強していて、
今は特に仏教についていろいろ読んでるんだけど、今回「どうにかしてしてカランバカからデルフィに行ってアテネに行く交通手段を確保して、デルフィを旅行日程から外さずに済ませることはできないか」と四苦八苦し、最終的にどうにもならないとわかって諦めるという経験をしたおかげで、ブッダが言う「執着が苦の原因」てのを心底実感した。
「どうにかならんのか」と思ってた間は苦しかったんだけど、「そっか、じゃあいいや、諦めよう」って決めた瞬間、苦はあっけないほど綺麗サッパリ消えた。
「執着が苦の原因」てのは真実。ブッダは正しい。
……でも。
だからって「執着を捨てなさい」と言うブッダの教えは、短絡すぎてちょっと違うんじゃないか、と強く思った。
「苦しみをなくすためには執着を捨てればいい」と言う理屈はわかる。でもそれじゃ足りなくない?「まずは執着して、精一杯努力しなさい」と言って、「その上で捨てるべき執着は捨てなさい」と言わないとダメなんじゃない?
人生なんてものは、なんでも最初から執着を捨ててしまっていたら面白くもなんともない。
なんでかって言うと、喜びや感動は、苦労とか努力とかに相対して体験するものだから。苦労や努力をしたことがない人は小さなことに喜びや感動を見出せなかったりするし、逆に苦労したあとの目標達成はこの上なく嬉しく感じるもんだから。
それに、執着がなかったら、人類なんて全く進歩しなかったに違いない。
何かに執着して、懸命に努力し工夫するのが人なんじゃないか。最初から執着を取り除いてしまったら、人が人たるべき理由なんてなくなると思う。全員ソッコーで浄土に行ってゲーム終了、ありがとうございました~、てなるだけじゃん。
あと、これ大事と思うんだけど、執着して自分なりにやり切ったからこそ執着を捨てられる、という面もある。だいたい、自然と湧いてくる執着を見て見ぬふりして、無理やり抑え込んで捨てるなんていう自分の心に背く行為をして、幸せになれるわけがない。
あたしは今回、なんとかデルフィに立ち寄れないか四苦八苦して調べたけど、自分なりに調べ切って駄目だとわかったから、その時点であっさり諦めることができた。
なんで行けないんだろう、もしかしたら方法があったのかも……みたいな残念感は1ミリも湧いてこない。なんで行けないのかも、方法がなかったことも、自分で確認して納得したから。
あと、正直に言うと、最初ギリシャ旅行を検討し始めた時、なんか個人手配がいつもよりムズそうだな、ツアーの方が楽かな、とちょっと思った。実際、ツアー旅行の方が簡単に決まってる。
でも、遺跡や博物館を延々気が済むまで見たり、フラフラ自由に歩き回りたいあたしにとっては、その辺の執着を捨ててパッケージツアーを選んだら後悔しかしてなかったはず。
そういうことなのよ。
以前ここで、
「悟りたくない」って書いたんだよね。
あの時はなんとなく直感でそう言っただけだったんだけど、なんで自分の直感がそう言ったのか、今回の件でめちゃくちゃ納得した。
人として生まれたからには、悟ってる場合じゃないでしょ、と思う。