三内丸山遺跡を見たかったから青森に行ったという前フリを書いたから、
行ってみて思ったことを書いておこうと思う。
まず、結構広い*1し、見学用にかなりきちんと整備されている。
縄文のムラ*2はボランティアガイドさんの説明を聞きながら巡ったんだけど、プロ野球試合を行える規模の野球場を建設しようとしていたら巨大6本柱建造物の跡が出てきてしまい野球場を断念したという話*3で、奈良の亀形石造物の遺構と同じじゃん!と笑ってしまった。
でも、ボランティアガイドについては、奈良の平城京とは違って、ちゃんとしてた。「研究によってここまではわかっていますが、ここからは学者さんたちが可能性を検討して想像しています」みたいな線引もわかりやすく教えてくれたし、ガイドさん自身も勉強しているのがよくわかる説明だった。
竪穴式住居の上の部分もどうなっていたのかわからないから、いろんな説が再現してあるんだそう。
そんなこんなで、まだまだわからないことが多いとは言え、わかってきていることもたくさんあるんだと知ってとても興味深かった。以下、へえ!と思ったこと。
道
ムラ内の道は見学用に整備したものではなく、縄文人が作ったものの復元。縄文時遊館を出て左に伸びている太い道は幅13~14mと現代の道と変わらない広さ。車が走ってたわけでもないのにこんなに広い道を作っていたとは!
この道はムラの中心を通って北東に伸びてるけど、この先にあったのは海。北東に伸びてる一番太い道の脇には大人の墓が点在していて、漁に行く前と帰ってきたときにご先祖様にお祈りできるようになっていたのでは?という話。面白い。
道は20~30cm掘り下げて作っていたそう*4。掘り下げたら雨が降ったときとかに川になっちゃいそうなんだけど*5、掘った時に出た土は盛土に使っていたとのこと。なぜそんな面倒くさいやり方で、こんな広い道を作ってたんですか、縄文人のみなさん。
墓
大人の墓はみんな道沿いにあるんだけど、子どもの墓は集落の中心部にある。子どもたちは土器に入れて埋葬されていて、わざと土器に穴があけてあったり、握りこぶし大の石が1~2個入っているものが多いんだそう。「なぜ石が入っているのかはわかりませんが、何か特別な意味があったんでしょう、自分たちの住居の近くに埋葬しているのも子どもに対する特別な想いがあったんでしょう」とガイドさんは言っていた。なんかそういう想いを想像すると泣ける。
盛土
壊れた石器、土器、土偶、ヒスイなどが大量に発掘されている場所なんだけど、石器や土器を一面に並べて土をかけ、その上にまた石器や土器などを並べて土をかけるというのを繰り返しているので、単に壊れたものを捨てていたのではなく、なんらかの意図を持って作っていたっぽい。
北と南に1つずつあり、北の盛土では石器や土器が見える面を水平に掘ったところが見学できるになっていて、南の盛土では垂直に掘って断面が見学できるようになっている。掘ってある箇所は小さいけれど、全体的には両方かなり大きい。
一体何してたんだろう、縄文人。不思議。
北の谷
こっちは正真正銘の捨て場。でも、谷の湿地部分にあったため空気に触れることがなく、木製品なんかも奇跡的に残っていたそう。
「樹皮で編んだポシェット」とかいう、スゴイものまで出土している。縄文ポシェットは縄文時遊館の展示室で見れるけど、結構きれいに残っていて驚く。中にはクルミが入ってたそうで、なんかカワイイ。
漆器も出土している。縄文時代にもう漆器を作ってたっていうのは今回初めて知ってびっくりした。しかも、展示室には素手で漆を塗り塗りしている縄文人のお兄さんの人形がいた。素手で?なんかいろいろすごすぎる。
6本柱建物跡
実際の建物跡はそのまま保存されていて、柱穴がいかに大きいか(直径2m・深さ2m)がわかるようになっている。穴の底に残っていた直径1mのクリの柱だけは確かレプリカだったと思うけど。
でも穴の底に掛かっていた圧力の具合とクリの柱の直径から柱の高さと角度が導き出されたそうで、6本もの巨大な柱を若干内側に傾けて均等幅に立てていたことがわかっている。
重機どころか鉄器もない時代に、王様も奴隷もいない比較的フラットな集落に住んでた人たちがこんなものを作ってるわけだから、コミュニティとしては相当レベルが高かったんじゃないか。ガイドさんも「縄文時代は文字がありませんでしたが、かなりのコミュニケーションがなければこのようなものは作れなかったと思います」と言っていた。
食料事情
縄文時代は今より2℃くらい暖かかったんだそう。知らなかった。
だから海はもっと近かったし、木の実なども豊富にあったらしい。雪はさすがに降っていたんじゃないかとガイドさんは言っていたけど、今よりずっと過ごしやすかったんだろう。
あと、稲作はしてなかったけど、縄文人はクリの木を植えていた。クリの木って寿命が50年くらいらしいから、実がなるうちは食べて、大木になって寿命が近くなったら柱とか木製品に使ってたんだろう。
縄文人の集落はあたしが思っていたよりもずっとレベルが高かったし、生活もあたしが想像してたよりもずっと豊かだった。だから争いが起こらなかったのかなぁ。もしかすると縄文人は精神的にも結構成熟してたのかもしれない。知らんけど。
とにかくとても興味深かった。
あと、あんまり縄文時代の不思議とは関係ないけど、世界遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」のロゴがすごく良かったから紹介しておく。
ガイドのおじさんは「みなさんこのロゴどう思います?どう見ても縄文土器ですよね?でも北海道と北東北の地形を表してるんだそうです」と不満げだったけど、両方狙ったデザインなんじゃないかなぁ。誰がデザインしたのか知らないけど、天才!と思った。
縄文、イイね!